- まず、「縁の木」をスタートした一番最初のきっかけを教えてください。
「縁の木」を始めたきっかけの話をするためには、私自身の話をした方がいいと思うので、そこから話しますね。まずはじめに、私のもともとの性格が、悲観的にならずにどんな環境にも適用して楽しめるタイプなんです。
大学卒業後は、印刷会社でB to Bの営業を行っていて、仕事自体楽しくて「定年までいるだろうな」と思っていました。
しかし、実は父を癌で早くに亡くすことになり。今後、祖父母と母親と生きるにあたり、もう少しお給料がいいところで、お休みがとれるところへと考えて転職したんです。
IT系の出版社に転職したのですが、仕事はまた楽しくなりました。結婚と二度の出産を経て数年過ごしたところでしょうか。下の息子が、静かで育てやすいのですが、「呼んでも振り返らない」「親を覚えない」といった感じで違和感を感じ病院に行ったところ、2歳8ヶ月の時に「知的障がいを伴う広汎性発達障害の疑い」と診断されたのです。(小学校5年時に「知的障害を伴う自閉症スペクトラム」と診断が確定しました。)
医師からは、生活を送るための訓練はできるが、健常者と同じにはならない、治るものではないと言われました。
「さてどうしよう」と考えていた矢先、脳内出血が原因で母親が急死したのです。次男の診断から3週間後でした。
そこで、「どんなに元気で健康でも、親って子どもより先に死ぬんだ」という現実に直面したんですね。
大変な出来事が立て続けに起こってしまいましたが、サラリーマンとして働くとなると、会社の利益が第一。今後の人生を考えた時に、まず子どものことを中心に人生設計をやり直しました。自立に時間がかかる、もしくは自立自体できないかもしれない子どものためにどうしようと考えた時に、お金を残すのではなく、親なき後もこの子が生きていける環境を整えることの方が大切と思ったのです。
それが「起業しよう」と思った第一のきっかけでした。
- 短期間で本当に壮絶なご経験をされたのですね。その後の気持ちの切り替えや人生の方向性はどのようになりましたか。次男のことと、私達両親がいなくなった時の生活のことを中心に考えるようになりました。親なき後の知的障がい者は本当に大変だと思います。お金の管理なども難しいですし。
日本では、障がい者福祉サービスもあり収入が低くても生活はできるかもしれませんが、大人になって趣味や旅行に使うお金も手にしてほしいから、自分で働いてお金を稼ぐ方法をいろいろと作りたかったんです。
しかし、障がい者福祉サービスはボランティアに頼っていて、収益性は低い仕組みが大半という現状がありました。すると、「もし、そのボランティアで手伝ってくれる人がいなくなったら、国の補助が減らされたらどうなるの?」という疑問が浮かび、自分で起業するという決心に変わったのです。
- 息子さんのことや障がいのあるほかの方が働ける場所を、と考えた時にどうして「コーヒー」の焙煎や販売をしようと考えたのでしょうか。
息子ひとりのためというよりは、地域と障がい者が繋がって、みんながお互いを認識しているような共生する環境を作りたかったんです。なんでコーヒーかというと、まず福祉事務所がやっていることを考えた時にパンとクッキーを焼いている所が圧倒的に多いんですね。そして、パンとクッキーに合うもので東京都内の狭い土地でもできるものってなんだろうと考えた結果「コーヒー」に行き着きました。
「起業」に関しては、今までずっと会社員をやってきた私には何も知識はなくて…
しかし、幼馴染がちょうど仕事を辞めたので手伝ってもらえることになり、資金面も自分の貯金でなんとかスタートを切れることが分かりました。
「さて、いよいよ!」と2014年に「縁の木」を開業しました。長男が小学2年生、障がいを抱える次男が保育園の年長の時でした。
- ご家族の反応やサポートはどんな感じでしたでしょうか。長男と夫には想いの丈などを話しました。「今までもなんとかうまくやってきたし大丈夫だよ!」と応援してくれましたよ。ちなみに、縁の木のロゴの読み仮名は「緑という字に見えるから”ミドリノキ”って言われないように」と長男が書いた文字です。
今までの会社員人生でも、人とのご縁、仕事とのご縁を存分に感じてきたので、「縁」という名前を使いたかったんですよね。その話も家族にしたところ、長男に「”縁”ってなぁに?」と質問されたので、イラストを描きながら「ある人とある人がいて、紹介されて繋がって…全部ひっくるめて『縁』というんだよ。」とぐるっと丸で囲んで説明しました。すると、「一人ひとりが『実』に見えて、なんだか木みたいだね」と。
子どもの発想力から出たちょっとした言葉でしたが、私も「本当にそうだな」と思い最終的に「縁の木」と名付けました。
